今や悪魔払い師とかいてエクソシストとルビを打ちます。タイトルだけは誰でも知っているだろうと思われる、伝説のホラー(オカルト)映画。 しかし伝説になりすぎた。今の感覚でいうホラーやオカルトの枠にはめて観ると、全然怖くないし地味だし、実際若い子なんかは「なんでこんなに有名になるんだ」とけちょんけちょんに書いているのも見かけます。確かに映像技術も進み、もっとショッキングで怖い映像や演出が巷にはあふれています。宗教的な禁忌感も薄い日本人が、オカルト〜と思って観ると、肩透かしをくらうかもしれません。私もこの封印バージョンで本当に久々にこの作品観まして、あり?と思ったのは事実。昔はもっと怖かったと思ったんだけどね。慣れって怖い。スパイダーウォークは気持ち悪かったけど。(でも笑っちゃった。)
でもこれは、コケおどしなビックリ映画ではなく、人の心のホラー(恐怖)と、キリスト教の宗教感の根の深さを結構真面目に扱った文芸作品だったのかもしれません。悪魔憑きという素材で料理した為に、ホラー分類になりましたが、今となってはそのレッテルが邪魔をしているようで、ジャンルの枠をはずしてあげたくなります。
娘を愛しながらも仕事にあけくれる母親、信仰とはなにかと自問自答し続ける神父、それら人の心が織り成す中に悪魔は生まれる、そんなベースがちゃんと描かれています。 少女に悪魔が「取りつく」、そのはっきりとした理由は最後まで分かりませんが、いきなりそこいらの霊が取りついた訳でなく、それなりの素養が少女にもありました。コックリさんのような降霊系の遊びに興じ、幻の相手と会話する、一人遊びのうまい思春期の女の子。母は優しいけれど仕事が忙しく、その度に引っ越し、そして父親は不在。誕生日にも来てくれませんが、それをしょうがないよと自分で自分を慰めてしまえるような、多少ステレオタイプではありますが、そんな彼女に悪魔は取りつくのです。
はたして本当に悪魔はいたのか。「それ」は彼女自身の負の感情が生みだした物ではなかったのか。(まあ後半、首が180度回ったり、さすがに心理現象じゃ無理やろう〜という描写はありますが…なんか後半引き寄せられて取りついた下等な動物霊とか、そういう印象ですが〜)ただの水なのに「聖水だ」といわれた途端苦しみだしたり、悪魔払いの儀式や聖書の言葉でも去らなかった悪魔が、ラスト殴られたくらいで出ていくのは何故だろうと考えると、そんな気がしてくるのです。(「いいかげんにせいよ〜!」と殴られ死の恐怖を感じた時に元に戻る…という…今だと二重人格物の作りになりそうですね。)
暴走を始め、彼女を苛み続ける「悪魔」に対抗するのはカラス神父。彼も又、神に使えるものでありながら、最愛の母を結果的に不幸な境遇で死なせてしまい、不安定な精神をもち、信仰がゆらぎつつあります。神など本当にいるのかと。そんな彼が、いたいけな少女の変貌と苦しみを前に、神父として悪魔払いの儀式に臨むのです。最後は、自分の体に悪魔を乗り移らせ、共に滅ぶという結末になるのですが、それは彼が神の使徒として儀式で悪魔を追い出した訳ではないのですね。激情にかられて(キレて(笑))少女の首を締め、はっと我に返り窓からダイビングするのです。あれは神父自身の、心の中の悪魔が目覚めた瞬間だったのではないのか?(「ええいくそう誰もかれもムカツク〜!ブッ殺す!……は!私はなんてことを!」みたいな感じ…(笑))
ただ、そういう解釈を邪魔するのが、冒頭からだらだらと描かれる老神父メリンのエピソード。これがどうしても邪魔に冗長で、意味不明気味でバランス悪いんですよね。ネットでちょっと回ってみた所、メリン神父と悪魔の、国境を越えた、長きにわたる因縁のイタチごっこの争いの系図だ〜みたいなのを見たのですが。それだと壮大なファンタジーの色を帯びてきますが、実際の映画の感触は、私は上記の通りです。原作は実話を元にしたドキュメンタリータッチの小説だというし。本当に悪魔との争いの宗教的物語だとしたら、いまいち意図が伝わってこないというか、逆に映画として陳腐な印象になるんですが…。その辺の断定を避けた混沌さが雰囲気作りに役だっているのか?最近のエンターテイメントのように、簡単に分かりやすいよりいいかもなあ。
ちなみに、なんといっても印象的なのがマイク・オールドフィールドの音楽、テーマソング「チューブラ・ベルズ」。ずっと私の携帯の着メロにはこの曲が入っています(笑)。
監督:ウィリアム・フリードキン。出演:エレン・バースタイン/マックス・フォン・シドー/ジェーソン・ミラー/リンダ・ブレア/2000(初:1973)年アメリカ作品
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